2011年6月15日水曜日

ときには恋愛について





「小林秀雄全作品25 人間の建設」
平成16年10月10日 株式会社新潮社 発行

この中に収められている「対談/教養ということ 田中美知太郎・小林秀雄」から
面白いなと思ったところをひとつ。

(57p.)田中氏・「恋愛というようなことでも、相手が自分を好いてくれるかどうかということよりも、相手が結婚にふみきるための外部条件みたいなものばかりが主要なことになって、そういうまわりの条件さえ整えば、それで相手はイエスを言うはずだと考えたりすることがあるのですね。だから、いざノーを言われたりすると、どうしてもわからないということになる。そんなはずはないというのですね。しかし好き嫌いをたしかめるのが先決問題じゃあないんですかね。しかしこんなのは旧式な考え方で、まわりから条件をそろえて行けば、好き嫌いなんてことは、簡単に片づくというのが、むしろ今日的な考えになるのかもしれない。つまり今日では政治でも経済でも、何でも計算し、計量して、まわりから攻めていくやり方が主になっている。社会科学でも、計量可能の領域が拡大されて行って、全体を自然科学に近づけるという考え方があるように思うんですがね。」

(58p.)小林氏・「それが根底でしょうね。そういう学問についての教育の仕方がまちがっているんじゃないかと思うんだな。いまの恋愛の話じゃないけれど、好き嫌いという問題が後まわしになっている。孔子がいっているね、「知る者は好む者に及ばない。好む者は喜ぶ者に及ばない」。好むとか喜ぶと言うことが孔子にとっては根底的だったのだな。最も現実的なことだったんだな。知るということはひとまず現実から離れてもいいことなんだ。そうした根底的なものの認識が、いま逆になっている傾向があるんじゃないかな。現実的なものは計量可能な、合理的なもの、そうなった。」


この後の対談、プラトンが教育の根本は好き嫌いだということから芸術教育を重視したこと。教育は説教ではなく習慣だということ。「万葉集」を学ぶにしてもその姿から入ることの大切さ(「万葉集」の解説や周辺知識よりも暗誦させること)など、面白いな〜と思いました。

この対談は昭和39年6月の『中央公論』に掲載されたもの。
なんだか、いまの時代にも当てはまるよなと思いながら読む。

「どんな人が好みですか?」
「どこが好きになったの?」
「結婚するならどんな人がいい?」

などなど、よく交わされる会話がある。

年収なのか?ファッションなのか?学歴なのか?優しさなのか?フィーリングなのか?

「歴史を学ぶのは、今の日本が向かうべき道を示すためなのか?」
「数学を学ぶのは、売上の計算をするためなのか?理系のほうが就職に有利だからなのか?」

いやはや、どうしても好きだからであり、それこそが生きる喜びだから、そういう気がする。