2015年12月18日金曜日

次号編集の長い佳境であらためて感じていること

「やぁ。きみには見えてるんだよね? 感じてるんだよね?」。

取材で各地を訪ね歩いていると、過去、その土地に生きた者たちの声なき声を聞くことがある。うまく言えないけれど、それはオバケが見えるという霊感とは違った意味で。

その声は、誌面をつくっていくにあたって、予定していない要請となる場合も多々ある。締め切りがとか、誌面の都合で、といった言い訳を(自分の中で)して、聞こえなかったこと、見えなかったことにして済ませたいなという衝動にかられることもある。

けれど、編集発行人が自分なので、1ページ足せないわけじゃないし、もう1人会って話を聞けないわけじゃない。結局はその声にしたがって、取材制作を進めることになる。

佐渡取材の時もとくにそれを感じた。郷土史家の山本修巳さんへのインタビューでは、「佐渡には〈呪い〉の歴史もあると思う。でもなにか救いはないのか」と聞いたら、「知ることが〈弔う〉ことになると思う」と答えていただいた。それにはとくに共感した。

そういうこともあって、以後、私はこの雑誌の原稿を書くことの大きな意味のひとつとして〈弔う〉ことを大切にしている。雑誌という形にして、ふたたび知らせること、掘り起こすこと、残すことはそういう仕事でもあるんだと思っている。

さらにいうと、その声とは、〈死者からの視線〉でもあり〈縁を結ぶこと〉だとも思っている。その声に従って、取材を進めると思いがけない人との出会いがあったり、記事にしたものが誰かと誰かを結ぶことになったりするからだ。

その声は私に言う、「聞こえた? わかるでしょう。わたしたちは、あなたたちと生きていることを。あなたたちの中に生きていることを」。

だから、私も祈る。つくってきた雑誌、これからできる雑誌が、この先の、未来に生きる人びとの中にも生きてくれることを。

書き過ぎたかなぁ...。でも、いま生きている人が買ってくれなきゃ商売にならないんだけどね。経営はあいかわらず厳しいし。次号の取材も長い佳境に入っていていくなかで、あらためてそんなことを感じてます。次号のあとがきもきっとこんなことを書くと思う。早いけど、、、もう先に言っておきます。