2019年9月30日月曜日

岩室あなぐま芸術祭によせて(補)

「障がいのある方に仕事に来てもらうことによって、すでに勤めていた従業員間のコミュニケーションの改善もみられました」

岩室温泉にある髙島屋の女将・髙島基子さんはそう話した。

2018年に始まった「岩室あなぐま芸術祭」。第2回となった本年は9月14日〜28日の会期で幕を下ろした。

Life-mag.は3本の記事を制作し、公開した。()()()のリンク先がそれである。企画と実行委員の方々へ賛同と敬意を表したいと思い、みずから申し出て、ボランティアによる広報(後方)支援を行なった。

会期は過ぎているが最後にもうひとつの記事を紹介したい。

髙島屋の女将・髙島基子さん

本年の出展作家のひとりである麦っ子ワークスの内山俊幸さんの取材で岩室温泉の髙島屋を訪ねた。展示作品を見させてもらった後、女将の髙島基子さんに話を聞いた。

「うちはいま麦っ子ワークスさんに館内や庭の清掃をお願いしているんですよ。ほんとうに助かっています」と髙島さん。

髙島屋は現在、麦っ子ワークスに施設や庭の清掃を依頼している。週1回ほど、半日。麦っ子ワークスの利用者さん5〜6人が髙島屋にやってきて仕事をしているという。

「きっかけはいわむろやさんで障がいのある方たちが清掃している姿をみたことです。それから興味をもってわたしたちもお願いすることにしました」

旅館業も人手不足のなか、施設内外の清掃に人が欲しかった。現場の様子をこう話してくれた。

「お客様が出入りになる際、麦っ子ワークスの方々が挨拶を交わすこともありますが、とくに問題はありません。宿を利用いただくお客様の理解も大きいと感じています」

さらに従業員同士のコミュニケーションにも良い変化が起こった。

「障がいのある方々に仕事をお願いするときにはしっかりと、どこを、どういう風に清掃してもらいたいか、仕事の指示を具体的にわかりやすくします。そういった習慣はほかの従業員にも波及して、普段の仕事でも良い影響が出て、社員間のコミュニケーションの改善にもつながっています」

人手不足のなか手を借りて助かるばかりか、従業員間のコミュニケーションの改善にもつながったという。

そんな髙島屋では、障害者雇用に関してもうひとつ取り組んでいることがある。西蒲高等特別支援学校に通う生徒が現在、職業訓練に来ていて、来年の春には就職する予定とのこと。

「常時雇用で来てもらって、館内やお部屋の掃除をお願いしようと思っています」

「旅館業界では昔、一度勤めたらもう最後まで勤め上げるという雰囲気がありました。雇う側もそういう構えでいました。しかし、お互いにそこまで思いつめることはないんですね。新潟市の障がい者就労支援センター〈こあサポート〉さんに相談すると、いろいろと教えていただき安心することができました」

障害のある人もない人もそれぞれの能力を活かして働くことができる地域に向けて。岩室温泉、そして西蒲区で生まれたあたたかな連鎖、その取り組みの一端を垣間見た気がした。

麦っ子ワークス外観

またなにか機会があれば、編集者としても、市議会議員として誰もが暮らしやすい地域となるよう関わりや、学びを続けていけたらと思う。

そして、このような考える機会をつくってくれた「岩室あなぐま芸術祭」にあらためて感謝したい。

お疲れ様でした。

ありがとうございました。

2019年9月28日土曜日

岩室あなぐま芸術祭によせて(3)

「内山さんの可能性がもっと見たかったんじゃないでしょうか」

コンパネをつなぎ合わせたキャンパスに描かれたゾウの絵が迫ってきた。昨年の「岩室あなぐま芸術祭」で見たゾウの絵の迫力、ユーモアをよく覚えていた。

作家は内山俊幸さん。西蒲区仁箇にある福祉作業所「麦っ子ワークス」に通う。内山さんには知的障害がある。

内山俊幸さん
あなぐま芸術祭2018、からむしやにて

内山さんは現在50歳、平成10年の麦っ子ワークス開設当初より通っている。作業の休憩時間などにほかの利用者とともに絵を描いているという。

麦っ子ワークスを訪ねると、支援員の山岸正則さんが施設内を案内してくれた。「ちょうどいま他の利用者さんと一緒に絵を描き始めたところでしたよ。新潟県の地図を描いているようです」と山岸さん。

鮮やかなクーピーで上中下越、そして佐渡に色分けされた地図を描いているところだった。わたしも挨拶をして、声をかけると明るく挨拶を返してくれた。

「内山さんはみんなから〈ウッチー〉って呼ばれて慕われてますよ。絵を描くときは迷いなく線を引いていきます。体調が優れなかったり、じぶんの中になにかモヤモヤがあると、絵に出ることもあります。今年のお正月頃はイノシシの絵を描いてたんですが苦戦していたようです」と山岸さん。

談笑の様子

麦っ子ワークス内は、内山さんと山岸さん、そしてほかの利用者さんの話し声とともに賑やかな雰囲気だった。初対面のわたしにも多くの利用者が声をかけてきた。

施設内にかけられた内山さんの絵01
施設内にかけられた内山さんの絵02

ゾウの絵を描いたのは5年前。当時の担当支援員Sさんが内山さんに声をかけて描かれたものだという。普段は画用紙などに描いているが、その様子を見たSさんが用意したのは、大きなコンパネ。

内山さんの創作意欲と、Sさんのこの大胆な提案が周囲を驚かすような作品を生んだ。

「利用者をあたたかく見守ってくれ、大事なときにはサポートをしてくれる方でした。きっと普段の様子を見ていて、内山さんの可能性をもっと見たいと思ったんじゃないでしょうか」と山岸さんは語る。

障害のある人の可能性を見出し、それをサポートする周りの環境はとても重要である。障害の特徴やその人の個性によって、支援のかたちは違ってくるだろうが、Sさんの提案は知的障害のある内山さんの可能性を社会に開いていくひとつのきっかけとなったのではないだろうか。

もしかしたら障害のある、ないに関わらないのかもしれない。

わたしたちは誰もがもつ、欠点や課題、困難に対して、すこしのサポート、すこしの助け合いがあれば、解決することは多いのではないだろうか。そんなこともふと感じた。

岩室温泉「髙島屋」
玄関脇に展示された

今年の岩室あなぐま芸術祭では、髙島屋に内山さんの絵が展示された。国の登録有形文化財に指定される宿とのコラボレーションとなった。

内山さんの作品をみた後、わたしは女将さんと障害者の地域雇用についてしばらく話して会場をあとにした。女将さんと話したことも追って、記事にできたらと思う。

2019年9月27日金曜日

燕三条工場の祭典2019まもなく

ツバメコーヒーにて

燕市のツバメコーヒーにLife-mag.の納品に伺いました。「燕三条 工場の祭典」の会期に向けて【燕三条編】を仕入れていただきました。いつもありがとうございます。

期間中は燕三条地域の工場が解放され、普段入れない職人の世界をかいまみることができます。気になるところを何ヶ所か回るだけでも十分楽しめます。

わたしは工場の祭典のカメラマンの写真が好きで、例年、パンフレットを楽しみにしていました。ことしはボリュームアップして、オフィシャルブック(360p. ¥2,000)として販売。さっそくツバメコーヒーで買ってきました。

去年、一昨年も楽しませてもらいました(下記、ツイート参照)



ことしの会期は10月3日〜6日です。
ぜひどうぞ。

[web]https://kouba-fes.jp/about-2019/

2019年9月4日水曜日

岩室あなぐま芸術祭2019によせて(2)

「目が見えない自分は劣った人間なんじゃないかという強い劣等感があった」

その意識を変えたのはアメリカへの留学経験だった。

「ほんとうの障害というのは社会の構造、偏見、差別意識の方にあるのではないか」

その経験は、社会の見方を180度変えたという。新潟市議会議員の青木学さんに話を聞いた。

「岩室あなぐま芸術祭」では「ヒューマンライブラリーセミナー&体験会」というイベントも開催される。ヒューマンライブラリーとは、2000年にデンマークで始まった取り組みで、障害者や性的マイノリティ、移民や特殊な職業の人などと少人数による対話を通じて、互いの理解を深める取り組みである。ゲストに招かれる「人」を「本」に見立てて、自分の知らない価値観を知る。

新潟青陵大学短期大学部の准教授・関久美子さんらが中心になり、企画を進めている。「今回は青木さんをはじめ、中途半身不随で自立生活をしている方、デートDVの経験を持つ方、不登校の経験を持つ大学生の4人を『本』としてお招きします。この活動を通してなにより私自身も世界が広がりました。そういう出会いが大きな魅力だと思います」と関さん。

当日は青木さんも一冊の「本」になってこれまで経験してきたことを話す。

新潟市議会議員・青木学さん

青木さんは小学6年の夏休み頃から目の病気で視力を失っていった。それまでは走り回ったり、野球をしたりしていたのが中学に上がる頃にはほぼすべての視力を失った。

「ショックでした...」

当時の心境を即答した。

「それから目が見えないということでの劣等感。自分は障害者で、劣った人間だという劣等感。これは大きかったです」と。

本人のショックが大きかったのはもちろん、家族や周囲の人たちもどう接したらいいのか戸惑っているのを感じていたという。しかし、その後、新潟盲学校の中学部に進学すると周囲の反応はすこし違った。

「見えないからといって特別扱いされませんでした。あまりに普通に接してくれて、だからこそしっかり向き合ってくれているんだなという実感はありましたね」と振り返る。

青木さんは中学に入るとギターの弾き語りをはじめたり、野球や柔道、バレーボールなどもやったりと活動的に過ごした。

「それでもやっぱり白杖(はくじょう)を持って外に出るというのはできませんでした。これを持っているということは視覚障害者なんだと認めることになる。これを持って歩いている姿を知っている人に見られたくない。中学・高校の頃はずっとそう思っていました」

高校部に上がり進路選択を考える時期になると担任の先生にある提案をされた。

「大学に進学してみたらどうか」

盲学校では鍼灸(しんきゅう)の道に進む生徒が多い中、3年時の担任は青木さんにこう勧めた。

「私からすれば盲学校の世界と外の世界はまったく別世界。遠い世界だと感じていました。正直、この先生はなにを言い出すんだろうって思いましたよ(笑)」

「ただ、人はいずれ死ぬんだし、チャンスがあるときに挑戦してみて最後を迎えた方が悔いがないんじゃないかな。先生の言うことを信じて、一歩を踏み出しました」

その後、青木さんは現役での進学はかなわず、京都の盲学校の予備校コースで浪人生活をはじめた。

「この時、初めて受験勉強の大変さ、ひとつの物事を習得することの厳しさを体験しました。はじめは高校3年時の担任の先生をいつも思い浮かべて、心のなかで頼って、浪人生活を頑張っていたんですが、ある時、先生がいないことに気がつきました。そして、自分の中の目標、または自分自身を少しずつ頼りにしていることに気づきました」

思い切って新潟を飛び出した青木さんは、京都の街で少しずつ自信をつけていった。

「それから京都は学生の街でね。盲学校にも女子大生のボランティアが来てくれるんです。週1回ですが、参考書や新聞を読んでもらってましたが、それも張り合いになってね(笑)」

1年間の浪人生活を経て、青木さんは京都外国語大学英米語学科に進学。大学時代は飲み会、ドライブ、カラオケに行くなど多くの友人に恵まれた。

最大の転機はアメリカ留学時に訪れる。青木さんは英語学をさらに学びたいのと、アメリカの障害者への支援体制、制度を見てみたいとの思いから留学を決意する。

留学先は、ワシントン州にあるセントラルワシントン大学大学院。

「入学直後、スペシャルサービスという期間が設けられていました。様々なハンディを持った人に対して、支援のコーディネートをする期間です」

その際、一生忘れることはないだろうというキーワードに出会う。

「あなたがこの大学で目的を達成するためにはどういうサポートが必要ですか?」

そう聞かれたという。

「日本の大学では『あなたが目が見えないからといって特別な支援はできませんので』と言われたこともありました。当時の世間の感覚からすれば私も当たり前だなと思っていました。それをわかってて私が勝手に選んで来たんだし、自分自身も大学側にああしてほしい、こうして欲しいということもありませんでした」

「アメリカでは、大学側が仲介してくれる有給の学生スタッフが障害のある学生のサポートをする仕組みが州の制度としてありました。そして、学生生活を送っていく中でも障害者もごく当たり前に健常者といっしょに議論したり、生活したりしていたんです」

もちろんサポートは当事者が目標や目的の達成のためになされる。明確な目的意識と行動が伴わなければいけないとも言えるだろう。

「私はその頃まで自分自身が社会の構成員だと思っていませんでした。なんとかして健常者に近づくことによって、人として認めてもらえるような。自分たちは社会の隅の方に置かせてもらっているような感覚でした」

障害者の権利がごく当たり前に生活のなかに浸透しているアメリカでの学生生活を経て、青木さんの意識は変わっていった。

「ほんとうの障害というのは社会の構造、周りの人の偏見、差別意識。それがほんとうの障害なんだと思うようになりました。社会の側の障害をひとつひとつ取り除いていくこと、それがほんとうのバリアフリーなんじゃないか」

「目が見えなくなって10年以上の時間がかかりましたけど、留学を経験して、これが自分なんだと受容できるようになりました。自分のなかにあった劣等感が軽くなっていったのを強く覚えています。社会と自分との関係を政治的にも考えるようになった原体験でもあります」

大学院を修了後、帰国。青木さんは国際関係の分野での仕事を求めて就職活動をはじめる。

「意気揚々と帰国してきたわけです。しかし、そこでまた壁にぶつかるんですね。JICAやNGO機関など、かなりの数、就職を希望して連絡を取りましたが、試験すら受けさせてもらえませんでした。視覚障害がある、というだけで門前払いでした。障害はありますがそのほか私が持っている能力や適性を判断する機会すらもらえない。これほど悔しい思いはありませんでした」

「いつか時代を変えてやる」そう心に決めて新潟に帰郷し、通訳などの仕事を過ごしていた。

次の転機は28歳。同じ視覚障害を持つ友人から「市議会議員という立場から社会を変えていくのはどうか。挑戦してみたらどうか」と勧められた。

1995年、新潟市議会議員選挙に初当選。福祉や教育、障害などの分野で積極的な提言を続けてきた青木さん。現在、7期目となった。

「いまは市報や議会だよりなども点字や音声で受け取ることができます。議案や委員会の資料も点字に訳してもらっています。IT技術の進展もあり、ワードやメールなどを読み上げてくれるソフトもありますし、ホームページの検索、読み上げもできます。情報収拾量は格段に増えました」

市議会議員となって25年目。とくに思い入れのある市政での出来事はなにかを聞いた。

「2016年に施行した『障がいのある人もない人も共に生きるまちづくり条例』でしょうか。2008年頃から議会で提起してきてようやく実現しました。これは全国的にも先進的な事例です」

この条例は、市や民間事業者に対し、障害を理由にした差別を法的に禁止するものであり、かつ話し合いを通じて相互の理解を深め、共生のまちづくりを進めることを目的としたものである。

(1)福祉サービス(2)医療(3)商品販売・サービス提供(4)雇用、(5)教育(6)建物・公共交通(7)不動産(8)情報提供(9)意思の受領といった個別例を示しそれらを禁止している。


「ようやくここまで来たか...、と感無量でした」と青木さん。

——事前インタビューでは学生時代の話を中心に聞いた。「岩室あなぐま芸術祭」では青木さんのこれまで転機となったことや市議会議員としての活動など、直接聞くことができる。

「本」との出会いのように、青木さんが歩んできた人生という「物語」の1ページに出会ってもらいたい。

青木さんの道具。議会や委員会などで気になったことをメモし、後で点字にして再現できる。また、USB端子からワードやエクセルなどのデータを読み込めば、それも点字に変換して読むことができる。ピアノの鍵盤のように見える黒い部分の白い点が浮かび上がって点字になる。点字ディスプレイ「ブレイルメモ」。

ヒューマンライブラリーセミナー in 岩室温泉

「ヒューマンライブラリーセミナー in 岩室温泉」

日時:9月25日18:30〜20:30、要申込、参加無料
会場:新潟市岩室観光施設いわむろや(伝承文化伝承館)

[詳細]https://www.iwamuro-anaguma.com


*「ニイガタヒューマンライブラリー2019」と題して11月3日(日)にイクネスしばた、11月10日(日)に新潟青陵大学・短期大学部でも開催が予定されている。上記チラシ参照。