2011年4月24日日曜日

シネ・ウインドをこの街で続けていくために



























先日、シネ・ウインドで映画を観た際にもらった案内が上記写真。


年会費制度の見直しがあり、入会しやすくなったとのこと。
私も以前は会員となり、映画を観に行っていたが今は会員ではない。


シネ・ウインド支配人井上さんの文章にはこうある、


「映画が放つ想像力が多くの観客の心を豊かにする」


最近、観に行った映画についてもまさにそう感じていたところ。


市民映画館として発足したシネ・ウインドは
「(映画上映や映画を題材とした各種講座の開催、子どもへの映像教育など)がこの街の市民力を更に高めていく」
とある。
事実、シネ・ウインドがこれまでに新潟という街で果たしてきた役割は限りなく大きい。そして、私自身もその恩恵を受けたもののひとりである。


代表の斎藤さんは私に言った、
「じゃあさ、映画始まる前にLIFE-magの説明して、終わったら買ってもらえばいいさ」
数日間ではあったが、通ったこともある。


井上さんの文章、
「いまシネ・ウインドが無くなるのは新潟県にとって少なからぬ損失です。」
との文章には、意識的か、無意識か、経営への切迫感を感じる。


情けない話だが、私自身生活にそれほど余裕のある状態ではなく、資金的な協力が厳しい。
アンテナを向けておいて、興味の湧いたものを観に行くといった微々たるものだが、協力していきたいと思う。




それにしても何かアイデアがないものか?
映画を観るだけなら、TSUTAYA、wowow、スカパー、オンライン配信で自宅にいながら、楽しむことが出来る。
しかし、それでも尚、シネ・ウインドという場に多くの人が足を運ぶにはどうしたらいいのだろうか? もしくはスポンサーをより多く獲得するにはどうしたらいいのだろうか? 「市民」映画館がいま果たすべき役割は何だろうか?




ふと、友人・SKTMさんの本棚にあった、

『ドラッカー名著集 4 非営利組織の経営』P.F.ドラッカー著・2007年1月・ダイヤモンド社発行

が頭に浮かんできた。
頁を開いてみよう。

2011年4月23日土曜日

「引く」あるいは「少ない」ということについて 004





















『風の旅人 vol.03』2003年8月1日・株式会社ユーラシア旅行社発行


確か、この雑誌に連載されている茂木健一郎氏のエッセイが好きで買った気がする。
当時、NHKのプロフェッショナルでしか、茂木氏のことは知らなかった。
このエッセイにはNHK放送では見ることの出来ない、本音のような、もっと過激で過剰な茂木氏を知ることが出来て楽しかった。


しかし、この創刊3号に関してはそれ以上に上記写真の有り様に桃源郷をみたような感覚に落ちた。


「サンティアゴ・デ・クーバの路上ディスコ」(撮影・中野正貴氏)

ここには良質のスピーカーもない
防音施工された壁もない
華やかなスポットライトもない
着飾った人も多くはない

それでもこの「場」に惹かれるのはなぜだろう...


ヨレヨレのシャツに履き潰したスニーカー
天井のない路上ディスコで両手を天へと挙げる
10代の少年から50代とみられる女性まで
多様な人々が音楽に身をゆだねている

ここには音楽を純粋に楽しみ
いまこの瞬間の生の喜びが凝縮されているように感じる。

割れる低音と共に
この写真からは「生ある喜び」を感じる。

2011年4月22日金曜日

「引く」あるいは「少ない」ということについて 003



























『17歳のための世界と日本の見方』・松岡正剛著・2006年12月25日・株式会社春秋社発行


この冬、ブログ前掲記事のことを考えながら、この本のことを思い出していた。

第四講・・・日本について考えてみよう
〜禅の感覚と「引き算の魅力」〜の項で松岡氏はこう述べる。

(273p.) 「枯山水は、実際には岩や石や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を観じていこうというものですね。こういう見方を禅の言葉で「止観」といいます。」

(274p.)「止めて見ると、逆にそのなかにいろいろなものがずっと見えてくる。」

(同頁)「しかも枯山水は水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまっている。つまりそこには「引き算」という方法が生きているんです。それが新しい美を生んだ。」


古今東西の森羅万象を縦横無尽に編集し尽くす松岡氏の本を私は解釈しきれたとは到底いえないが、読み進めるのはとても楽しい。




蛇足になるが、東京駅に行った際に丸善の松丸本舗に寄ったこともある。その本棚からは松岡編集学のストイックさと狂気すら感じた。
私は、書店が作る本棚がいくつかの社会問題を解決することもあるのではと思っている。ひとつの街を変えていくこともあると思う。書店員の配置次第では、通りすがりのお客さんを茶道へといざない、インド旅行へいざない、環境問題への関心を呼び起こし、ある人は喫茶店を始めるかもしれない、一冊の本(という世界)を通じてお客さん同士が知り合うかもしれない。

どんな仕掛けを組み立てるか?

私が書店に足を運ぶのは、お目当ての本を探すというより、その「仕掛け」に込められたメッセージを読みに行くことが専らである。

「引く」あるいは「少ない」ということについて 002


























『旅をする木』星野道夫著・1999年3月10日・株式会社文藝春秋発行。

星野道夫氏の文章を読むのは初めてだった。
極北の地、アラスカから綴られた文章は私の心を温めるものだった。
星野氏の感性に憧れももった。

この本の中に「ルース氷河」というエッセイがある。
日本からアラスカにオーロラを見に来た子ども達の心象風景を星野氏が綴る。
小学生から高校生までの11人の子ども達。
聡明な受験生やガキ大将、反抗期まっただなかの子、様々な子ども達だ。

そんな子ども達を見つめ、星野氏は言う。

(118p.)「日本に帰って、あわただしい日々の暮らしに戻り、ルース氷河のことなど忘れてしまってもいい。 〜中略〜 ひとつの体験が、その人間の暮らしの中で熟し、何かを形づくるまでには、少し時間が必要な気がするからだ。」

夢中になってオーロラを見つめる子ども達の背後で、いますべてを理解する必要はない、あやふやな記憶でさえ5年、10年、いやいや20年!!した後に今一度、甦るときを待てばいい。私はそんな星野氏の姿を想像しながら読み進めた。

(同頁)「あらゆる情報の海の中で暮らす日本の子どもたちにとって、それは全く逆の世界。しかし何もないかわりに、そこにはシーンとした宇宙の気配があった。氷上の上で過ごす夜の静けさ、風の冷たさ、星の輝き・・・情報が少ないということはある力を秘めている。それは人間に何かを想像する機会を与えてくれるからだ。」

読んだのは2011年2月、まだまだ冷え込む新潟の冬。
私が情報の海の中、見えなくなっているものはなんだったんだろうか。
しばし思いを巡らせていた。


「引く」あるいは「少ない」ということについて 001



しばらくは自分の思考を追うように、
おぼろげなブログになることをお許しいただきたい。
これは今年2011年3月の前半にぼんやりと考えていたこと。

小さなニット工場の事務室に無造作に置いてあった、
JAF MATE 2011年3月号の星野富弘氏の言葉にはっとした。
星野氏のことは知っていた。
美術館にも行ったこともあった。
それでも、言葉というものは受け取る側の心の状態で印象は変わる。

「手と足が不自由になって」〜「神様ほんとにありがとう」

星野氏の柔らかな絵と丸みをおびた文字とはうらはらに、
こうも芯のある力強い言葉。
あなたは手足を不自由にして、その後、どんな思いで過ごしたことか。
キリスト教徒である星野氏の使う「神様」とは、イエス・キリストに向けられているとも考えられる。
その思考の果てに、感謝の状態にある星野氏。

「恐れ入りました」私はそんな受け取り方をした。

ブログの移動

一年一年の変化が本当に激しい。
自分自身にしても、世の中の動きにしても。


個人的に公私ともに大きな節目を迎えています。
心機一転、ブログも移動することにしました。

以前の記事も含めて、移動させようかなと思って、
インポート/エクスポートを使ったのですが、
うまくいかず・・・。
HTMLやCSSの知識があればどうにか出来るのだろうか?
今まで避けてきただけに、こういったときに困ります。
この機会に勉強して、もし可能であれば、その時点で過去の記事も
移動させようと思います。

まずは!bloggerで再スタートします。

http://yaseido.blogspot.com/



久しぶりにブログをすべて読み返しました。
LIFE-mag創刊前の孤独な自分、
走り出し様々な出会いに恵まれた時期、
休刊を迎えたその後の自分、
読み返し、様々な感情が湧き上がってきました。
よく頑張ったなと言ってやりたい思いもあるけれど、
後悔と反省を込め、もっともっと頑張れよ!!ワクワクすることにもっと貪欲になれよ!!と今は振り返っています。


その間、小林弘樹という「ひとつの生命体」に触れ、
気のあった人、怒った人、褒めてくれた人、蔑んだ人、語り合った人、飲み明かした人、悲しみを分けた人、噛み合わなかった人、邂逅した人、別れた人、お世話になった人、お世話した人、迷惑かけた人、気づきをいただいた人、こっそり支えてくれた人、、、
そのすべての人に感謝の気持ちで一杯になりました。

ありがたい。

生と死を迎えるのは肉体のみならず、精神の触れ合いもまたしかり。
生命の循環を思い。

あらためて、感謝の思い。

2011年4月12日火曜日

玄 牝
















シネウインドにて「玄牝」を鑑賞。

産まれたての赤ちゃんを抱え、
「会いたかった〜」と話しかける母の姿に見入りました。

舞台となった吉村医院の吉村先生は、母子の死も自然のことと語る。
そして、現代医療では母親の気持ちが蔑ろにされているとも。

吉村先生の娘さんの「患者さんたちばかりのコトを考えていて私たち家族には向き合ってくれなかった。もっと寄り添って欲しかった」との言葉がなおこの映画に奥行きを与えていた。