2011年4月22日金曜日

「引く」あるいは「少ない」ということについて 002


























『旅をする木』星野道夫著・1999年3月10日・株式会社文藝春秋発行。

星野道夫氏の文章を読むのは初めてだった。
極北の地、アラスカから綴られた文章は私の心を温めるものだった。
星野氏の感性に憧れももった。

この本の中に「ルース氷河」というエッセイがある。
日本からアラスカにオーロラを見に来た子ども達の心象風景を星野氏が綴る。
小学生から高校生までの11人の子ども達。
聡明な受験生やガキ大将、反抗期まっただなかの子、様々な子ども達だ。

そんな子ども達を見つめ、星野氏は言う。

(118p.)「日本に帰って、あわただしい日々の暮らしに戻り、ルース氷河のことなど忘れてしまってもいい。 〜中略〜 ひとつの体験が、その人間の暮らしの中で熟し、何かを形づくるまでには、少し時間が必要な気がするからだ。」

夢中になってオーロラを見つめる子ども達の背後で、いますべてを理解する必要はない、あやふやな記憶でさえ5年、10年、いやいや20年!!した後に今一度、甦るときを待てばいい。私はそんな星野氏の姿を想像しながら読み進めた。

(同頁)「あらゆる情報の海の中で暮らす日本の子どもたちにとって、それは全く逆の世界。しかし何もないかわりに、そこにはシーンとした宇宙の気配があった。氷上の上で過ごす夜の静けさ、風の冷たさ、星の輝き・・・情報が少ないということはある力を秘めている。それは人間に何かを想像する機会を与えてくれるからだ。」

読んだのは2011年2月、まだまだ冷え込む新潟の冬。
私が情報の海の中、見えなくなっているものはなんだったんだろうか。
しばし思いを巡らせていた。