『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン著/藤田一照訳(春秋社) |
前から名前をよく聞いていたベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンさんの本を拾い読み。印象に残っている箇所を3つ、メモしておきます。拾い読みをしたのは、私では通読するのが難しく、読み込めないから。目に飛び込む印象的なフレーズを拾っていったのみ。一呼吸・一瞬・一生の大切さを再確認。
〈簡単な略歴〉
1926年ベトナム中部に生まれ、1961年プリンストン大学で比較宗教を学ぶ。ベトナム戦争に際し、僧院での瞑想に葛藤。その後、〈行動する仏教〉を目指し世界中を回り布教活動を行う。フランスのプラムヴィレッジ在住。
─────────────まえがきにて
私は、毎朝毎晩、座禅道へ向かうとき、新鮮な空気と一歩一歩を深く味わいながら、ゆっくりと歩きます。そうやって静かに歩いて、呼吸を大切にし、歩くことと呼吸に集中することは、誰もが日常生活の中でできることです。たとえば、仕事場から駐車場、もしくは家の玄関から駅までの距離を自分の歩行瞑想の場所と決めて、その間を歩いているときは、悩んだり、心配事など全て忘れて、歩くことだけを楽しむのです。このような日課を身につければ、心は安らぎに満ち、ストレスは減ります。誰もが、いつでもどこでも歩く瞑想を実践できます。
─────────────第25章大地を支える者と大地の蔵にて
家族、社会、伝統の中にしっかりと根をもてない人は餓鬼になってしまう。その人はどこに行ったらいいのかわからない。何も、だれも信じない。こういう人に出会ったら、その人の歩き方、外見、行動の仕方で、すぐに見分けがつく。かれらのなかには多くの苦しみがある。かれらの根が切断されてしまったからだ。家族のなかに根を持っていないから、実際上かれらには家族がいないのと同じだ。おそらくかれらは自分の両親が互いにどのような振る舞いをしたかを目にして、結婚やパートナーシップを持つ気をなくし、家族を自分で育てる気がしなくなったのだろう。かれらは健康で、愛情のある人と人との関係を頭から信じていないので、自分の家族を拒絶し、親しい絆を作らない。だからこそとても苦しむのだ。
─────────────第34章瞑想にて
われわれには自分はずっと同じ人間のまま変わらないでいる、そして愛する人もずっと同じままでいると信じる強い傾向がある。しかし、これは思い違いでしかないのであって、それこそがわれわれがもっとマインドフルにそして慈悲深いやりかたで生きていくことを妨げている。もし愛するあらゆる人、あらゆる物がいつでもそこにあると信じていたら、いまここでそれを大事にすることなどほとんど考えられないだろう。愛する物や人を失ったとき、われわれは苦しむ。しかし、その物や人がまだ自分の人生のなかに存在していたときには、それを大切にしたり、その人がいることを本当にありがたいと思ったりはしていなかったのだ。それは無常についての洞察を欠いていたからだ。無常についての洞察を瞑想的気づきの対象にすること(観無常)はたいへん重要である。この洞察をもつことが慈愛と慈悲と不可欠の要素であるからだ。
無常の光のもとで自分自身や愛する人たちを深く観るとき、自分や人々に喜びをもたらすには、たった今何をすべきかがおのずからわかってくる。誰かに腹を立てるとすれば、それは無常の洞察と無我の洞察が欠けているからだ。われわれは幸福というものは個人の問題だと考えている。しかし、インタービーイング(相互的存在性)のあり方を深く観るとき、他の人が苦しんでいるなら、われわれが本当に幸福になることはできないということがはっきりとわかる。