1701年(元禄14年)より採掘が始まったといわれる銅山です。その後、何人かの経営者の変遷を辿りながら採掘が続けられ、1904年(明治37年)11月に新潟白勢財閥に経営が移り、のち1920年(大正9年)に閉山となりました。1912年(大正元年)〜1915年(大正4年)を最盛期(月産約50t)に、260〜350名ほどの労働者とその家族が鉱山飯場に暮らしました。
今回の間瀬銅山跡見学は、玉川堂さん(燕市)の社員研修の一環として行われたもので、私は【燕三条編】の取材でお世話になった縁もあり、そこに同行させていただきました。
玉川堂さんが社員研修に〜、というのはこの間瀬銅山から採掘された銅が江戸時代に、燕の銅器製造の原材料として使用されていた経緯があるためです。間瀬銅山から採掘された銅は、不純物が少なく、伸張性のある緋色銅で、品質の良い商品作りを支えたそうです。
玉川堂さんは、1816年(文化13年)の創業で来年2016年は創業200年。その源流を社員の方々で辿ってみようとの機会でした。
集合 |
2015年4月19日(日)8:40、田ノ浦温泉駐車場集合。案内をしていただいたのは、郷土史研究をされている石瀬地区の山田さん、いわむろ案内人(まちあるきの会)の方々、間瀬地区の方々です。
坑口をめざして |
険しい道を進みます |
弥彦山登山道の旧間瀬銅山道という看板も立っているので、この道かも? というのをすぐに見つけられるかもしれません。しかし、地元の方や案内できる方が一緒でない限り、侵入するのはまったく勧められません。
坑口発見 |
歩き始めて約1時間、ようやく坑口にたどり着きました。坑道内は、10人ずつ2組に別れて入りました。入口付近は泥水が溜まっていて、長靴が必須です。奥に進むと次第に乾燥し、貨車のレール跡も出てきます。
坑道内にて |
坑道を5分ほど入ったところです。右が玉川宣夫さん(鎚起銅器・人間国宝)、中が玉川基行さん(7代目社長)です。大変、興味深そうに見つめられていました。
さらに先へと、そして下層や上階へと道が続いていましたが、これ以上の侵入は止めることに。坑道壁のコウモリを目の前にしながら、外へと戻りました。
2組目の方たちが戻ってきました |
出てきて安堵の表情。玉川堂・山田さん |
帰りももちろん険しいです |
銅山神社跡 |
帰りに銅山神社跡に参拝。薮の中にあったものを3年ほどかけて地域の方が整備されたそうです。
全員無事に帰還 |
途中、坑道とは別方向にある火薬庫や弥彦大明神なども見学して、戻ってきたのは12時を過ぎていました。皆さん汗だく。何事もなくほんとうによかったです。
間瀬銅山跡の一帯は史跡としてとても重要だと思いますが、かといってすぐに観光化して多くの人に来てもらおうというと、また話は違うようです。まず道が危険。ほんとに危険。
また案内していただいた地元の方はこの後、お祓いに行くと言っていました。鉱山一帯は、霊に敏感な人にとっては何かを感じるそうです。
今回は、特別な機会で幸運にも見学することができ、弥彦山〜多宝山麓の産業文化の歴史を肌で感じる貴重な機会になりました。先日、『LIFE-mag.』次号予告を見て、玉川堂・山田立さんからお誘いいただきました。ありがとうございました。
以下に補足で何枚か。
波のよう |
採掘方法は、水平なトンネルを掘る「坑道掘り」や地表近くを不規則にたぬきの巣のように掘る「たぬき掘り・いたち掘り」、そして上の写真のように地表から確認できる場所を掘る「路頭掘り」などがあります。
不動明王 |
こちらは弥彦山登山道沿いにあります。
銅山師らによって建立された弥彦大明神 |
火薬庫跡 |
太平洋戦争時に使われたという「火薬庫跡」が3つあります。この付近で採掘された間瀬石で造られています。間瀬石は、耐火性、保温性に優れていて、明治2年に新潟運上所が建設された際、石庫にも使われました。
坑口への道中をもう一枚 |
以上です。記事内容は、地元まちあるきの会の方たちが制作した当日配布資料を参考にしました。