2015年11月21日土曜日

頽廃を回避するための摩擦への耐性



大きな事件・事故が起こると、人は多弁になる。

SNS上での発言はとくに顕著で、様々に流れてくる一家言の濁流に飲み込まれてしまうと、受け手は思考も気持ちも整理がつかなくなります。その中では、考えかたの違いや、意見の不一致を感じることもあります。「なんなら、俺も一家言」と思っても、もともと機転が利くほうじゃないし、ユーモアや毒っけにも乏しいため、いい言葉が浮かびません。時には、攻撃的な言葉が向けられることもあって、なんだか湿った暗い気分になってしまうこともあります。

結局、いつもできることは、時間をかけて自分なりに考え続けていくことくらいです。自分の凝り固まったアタマ、ジョーシキという岩盤に、ゆっくりと水が染みわたるのを待つかのように。

———

最近、『日本の反知性主義』に寄せられた、鷲田清一さんの「『摩擦』の意味」という文章をたまたま読んで、共感したので紹介します。

「摩擦を消すのではなく、『摩擦』に耐え、そのことで『圧制』と『頽廃』のいずれをも回避するには、煩雑さへの耐性というものが人びとに強く求められます」

「世界を理解するうえでのこの煩雑さの増大に堪えきれる耐性を身につけていることが、知性的ということなのです」

この夏の安全保障関連法案の可決、そしてフランスでのテロのニュースをうけて、それらの問題を考えはじめる足がかり、または向き合う〈姿勢〉として重要だなと思いました。

それから一昨日の夜、届いた荷物の梱包に使われていたくしゃくしゃの新聞(8/12付)をよくみていたら、川内原発再稼働が一面でした。3ヶ月前のことですが、もっとずっと前のようにも感じるというか、「遠くに置いておきたいなぁ」とも思っていた自分がいたことにはっとしました。

そして、一面の左下には、同じく鷲田さんの連載「折々のことば」があり、「哲学とは、みずからの始点が更新されてゆく経験のことである。」というメルロ・ポンティの言葉が紹介されていました。先の寄稿を読んだ印象を裏付けるような一言でした。

———

さらに話は飛びますが、今晩、編集室近くの医学町ビルで「パタのわ」という会が開催されるそうです。私が冒頭にあげた不全感、または「政治にたいするモヤモヤを話し合う」イベントだそうです。案内をいただき、興味と共感もあったんですが、仕事で参加できそうにありません。主催者の方々や、参加者の方々に、届いても、届かなくても...、気持ちだけでもここに記して、参加しようと思います。