先生からの依頼は「小林さんが雑誌づくりをはじめた経緯や、取材編集にかける思いなどを話してもらいたい。そして、子どもたちには自分の興味・関心を伸ばしていくことの大切さを感じてもらいたい」とのことでした。
面識のある方なら想像がつくと思いますが、「え゛。コ、コバヤシくん、大人だろうが子どもだろうが人前で話すの、苦手ぢゃねーか(笑)」と。そうです、自覚してます。
今回もそうでしたが「ユーモアを交えて流暢に話せたか」と言えば、ほど遠いでしょう。生徒から見ても、迷い、戸惑い、緊張が感じられたことだと思います。
そんな予想もあったので、授業の冒頭に「一言か二言でいいから、自分の中に残る言葉を持ち帰ってもらいたい。または、同じ新潟の町にこんな大人がいるんだ〜、という印象だけでもいい」とハードルをさげて話しはじめました。
1時間強。自分の中で雑誌づくりの原点になっているいくつかの出来事と、普段の取材編集中の写真を見てもらいながらその思いを伝えました。
先生からの依頼を受けて、わたしなりの結論はふたつでした。「あ〜、〈仕事〉って自分でつくっていいんだ!という気づき。そして、仕事をつくるとは〈人生〉をつくっていくことでもあるんだ」「興味・関心を大切にするというのは、言い換えれば〈孤独〉を大切にすることである」です。これも授業の冒頭と終わりにあえて言いました。
年に数回、教育機関から授業の依頼をいただくことがありますが、終わった後はいつも残尿感、、、ではなく不全感が残ります。「いや〜、言いたいこと言えたぜ〜、スッキリ!」という思いは皆無です。ゼロです。ヘンな汗でシャツがびっしょりです。
では、なぜそんな依頼を受けるのかといえば、「公共心」かなと思っています。これまでほんとうにいろんな人たちから、知識や経験、技術を授けてもらい、ときに叱責を受け、迷惑もかけてきました。それでも、どうにかこうにか続けさせてもらっているこの経験が、次の世代を担う子どもたちにわずかでも役に立つなら、協力したいなという思いです。
わたしは、ボランティアも募金もほとんどしません。ただ、好き勝手させてもらっているわたしでも、教育を通じてなにか社会のお役に立てるなら、というわずかな公共心はあるようです。
「請われれば 一差し舞える人物になれ」(梅棹忠夫)
授業の依頼があるたび、「ゔ〜・・・」と思いながらもこの言葉を思い出し、引き受けることにしています。