書は華雪さん |
納品回りの際、[岩室]のギャラリー室礼に行った。一階は「灯りの食邸 小鍛冶屋」で、その二階がギャラリー空間になっており、古本、民芸品、器などが展示、販売されている。主宰する桾沢さんにお声がけいただいて、ここでも新刊を取扱っていただけることになった。
納品はすでに済ませていたので、この日はひとり、ギャラリーに流れる時間に身を置いた。古本を物色し、静かにソファに座った。乳白色のすりガラスから春の陽光が射し込み、築100年ほどという古民家の床板を輝かせていた。
どこからともなく小さな音でピアノが流れている。聴いたことがある。わたしも仕事中に時々、聴いているドイツ人ピアニストのCDだった。
居心地がいい。
ふぅ、とソファに腰を沈めると、日常の喧噪を忘れさせる異空間にきたようだった。すると普段だったら目に止まらないような古本にもなぜか興味が湧いてきた。
『なぜ古典を読むのか』 |
須賀敦子訳の『なぜ古典を読むのか』イタロ・カルヴィーノ著(みすず書房)を手に取って、ぱらぱらとめくった。カルヴィーノは、20世紀前半のイタリアで活躍した文学者で編集者である。
日常ではまず手に取らないであろう本が、ぐっと身近に寄ってきた。
著名となっている「なぜ古典を読むのか」という章を拾い読みした。
「7 古典とは、私たちが読むまえにこれを読んだ人たちの足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば、言葉づかいとか習慣のなかに)足跡をとどめている書物だ。」
「13 時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。」
「14 もっとも相いれない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ。」
とあった。
これって・・・。
古い本、古い建築、古くから伝わる手仕事の知恵(室礼の活動のひとつ「土着ワークショップ」など)を活かした室礼の取組/空間自体が、カルヴィーノの言う「古典」的ではないかと思った。
また、「古典」とは、生まれ育った「故郷」のようだとも。
ぼんやりとそんなことを考えながら、またわたしは納品回りの喧噪へと戻った。