トークイベント終了後の北書店入口 |
私は子どもの保育園のお迎え、夕食の支度をすませてから急いで向かったので、少し遅れました。到着すると会場は満員(50人以上はいたと思います)。既にイベントは、はじまっていました。
北川さんは終始目を閉じて、細切れの内容を矢継ぎ早に、お話されていました。私の理解力の無さもあって、体系的なメモを取ることが出来ませんでした。150分ノンストップで後半はおしりが痛かったです(笑)。ノートにメモしたことを部分的に、ここに記しておきます。正確な本意は、本人の著書などにあたられることを強くすすめておきます。
メモ)───────────────
・新潟は文学性が薄い。人の厚みがない。
・水と土の芸術祭をふまえて、改めて勉強しなおすべき本を選び、新潟市で読書会をはじめた。→にいがた木曜読書会(http://mocdoc.info/)
・網野善彦、宮本常一、鶴見俊輔、林達雄などを読んでいる。
・わたしたちはどこから来たのか?をあらためて問いたい。
・地域をイベントや研究対象とする場合、「調査される側の迷惑」も考えなければ。
・これまでの地域づくりは、効率化・情報化・一極集中だった。そうではなく、地域間を繫ぐことをやりたい。
・戦後日本は、「啓蒙」と「正義」のためにたたかってきた。
・「限界芸術」という考え方が重要。食べ物、祭り、労働歌など、一般的に芸術といわれるものの根底にそれはある。
・越後妻有では、都会の人間が田舎のじいちゃん、ばあちゃんと同じフィールドに立った。
・自然と人間の関係を現す方法として美術がある。
・美術館やギャラリーが資本主義化して、空間が失われた。
・林達雄さんの外国美術の受容の仕方がすごい。「ラベンダー」というエッセイは特に秀逸。1956年にソ連の共産党を批判。これは共産主義ではなく、全体主義だと。
・日本語の成立について、勉強しなおしている。丸谷才一さん、大岡信さんなど。
・越後妻有では、明治の大合併前の集落単位でプロジェクトを行っている。いまは一市一町だが、もともとあった200の集落で考えることが大切。
・あざみひら集落は1000年以上続くリアルがある。
・アーティストの妄想が地域に入っていくと衝突が起こる。私有制が壊れていくことでもある。
・日本列島の強さは、人々が移動してきたこと、潮の流れ、季節風、木や森との共存にあった。
・アーティストが地域に入っていくと、そのアーティスト自身が“明るく”なっていく。
・田島征三さんの廃校プロジェクトはよかった。田島さんは立体作品は初めてだった。
・「ツールド妻有」、「里山かくれんぼ」は人気イベントになった。
・都市の人間は田舎を求めている。田舎ではジャンルを超えた人との出会いがある。
・越後妻有の地域に入って10年以上が経つが、集落を維持することが難しい地域も出てきた。
・過疎地が見放されようとしているいま、過疎地との“つながり”を“アート”が担えないか。
・東アジアという視点で物事を考えることが大切。
・地域のじいちゃん、ばあちゃんが楽しいと思えて、地域に雇用を生み出せることをやりたい。
・チームは多様な人が入るべき。第6回の越後妻有に向けて、廃校の活用、市街地の活性化、飯山線の活用、倉庫美術館、アーティストレジデンスの誘致などを課題にしたい。
・『新古今和歌集』の美術版をやりたい。
・芸術祭は新しい公共のかたちを考えることである。
・瀬戸内は「海の復権」がテーマ。アート・建築、民俗・生活、交流、世界の叡智が集う、次世代育成、緑を作る。
・瀬戸内の来場者のうち、2泊以上する人が3割もいる。来場者の7割が女性。
・人類は新しい土地にいくとき、種と苗を持っていく。
・われわれは元来、大工であり、漁師であり、農夫であった。
・アートは土地に言葉と光と影を与えること、歴史を甦らせることができる。
・大阪という都市の「庭」は瀬戸内海。大阪は瀬戸内海に背を向けるべきでない。
・地域の人のエネルギーをうまく使いたい。
・東アジアのファンドをうまく使いたい。香港、中国、シンガポールなど。
・文化庁の予算が来年度から増える。
・美術は人と「違う」ことが褒められる。
・アーティストは作る現場を見せるべき。
・行政や地元のNPOと意見が食い違い、たたかうことになることもある。
イベントフライヤー |
雑感)───────────────
私としては、新潟市で開催された「水と土の芸術祭」の良かった点、悪かった点をもう少し聞きたかったなと思いました。
北川さんが新潟市で行っている「にいがた木曜読書会」(http://mocdoc.info/)は、市民の方と直接、思想を共有、議論出来る場ですごくいいなと思いました。しかも、内容をウェブにアップしているので、どんなことが話し合われたか、他の人も知ること、学ぶことができて、ありがたいです。
その読書会が行われている喫茶店・カフェドラペのマスターからは、私も鶴見俊輔さんの魅力を教えてもらっていました。(もう3、4年前だろうか・・・)
イベント後、編集室に戻り、話に出てきた「限界芸術」についてあらためて著書を開いてみました。
鶴見俊輔集6限界芸術論 筑摩書房 |
鶴見俊輔さんの『限界芸術論』は、こうはじまります。
「芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである」
限界芸術については、
「芸術の発展を考えるにさいして、まず限界芸術を考えることは、二重の意味で重要である。第一には、系統派生的に見て、芸術の根源が人間の歴史よりはるかに前からある遊びに発するものと考えられることから、地上にあらわれた芸術の最初の形は、純粋芸術・大衆芸術を生む力をもつものとしての限界芸術であったと考えられるからである。
第二には、個体発生的に見て、われわれ今日の人間が芸術に接近する道も、最初には新聞紙でつくったカブトだとか、奴ダコやコマ、あめ屋の色どったしんこ細工などのような限界芸術の諸ジャンルにあるからだ」
とあります。
新潟市で開催された「水と土の芸術祭」も、一般的に「芸術」と呼ばれているものよりももっと広い意味で「芸術」を捉え直そうという機会でした。
食、地形、民話、方言、産業、遊び、祭り、自然などを作家さんたちがアートによって、面白く再現していきました。「俺たちの暮らす地域ってアートを通して見るとけっこう面白いんだなぁ」と気づかせてくれる機会でした。
私自身もそうですが、ついつい「俺の地元って、なんもね〜、つまんね〜」と思ってしまいがちです。北川さんの行ってきた芸術祭、鶴見さんの『限界芸術論』の考え方は、学ぶべきことが多いと思いました。