「大橋弘×睦田幸枝スライドトーク+頸城杜氏『酒造り唄』を聞く会」に参加してきました。これは「壺中の天」大橋弘写真展(5/21〜5/28 於・heya銀花)に併せた記念イベントとして行われたものです。
日本で培われてきた豊かな発酵食文化を感じることのできる素晴らしい企画でしたので、紹介します。
heya銀花(医学町通・新潟)での「壺中の天」大𣘺弘写真展みてきました。事務所からすぐですが初めて。壺で育まれてきた豊かな発酵食文化を、うっとりさせるような写真で。写真で飯食える![詳細]http://t.co/uINp1sOnEo pic.twitter.com/aOj52el46n
— 小林弘樹 (@niigatalifemag) 2015, 5月 22
このイベントを知ったのはたまたま前日、ツイッターで写真展のことを知り、事務所からも近いしちょっと行ってみるかと訪ねたときです。帰り際にオーナーが「明日、イベントあるからよかったらきてね〜」と。
やるべき仕事もたまってるしどうしようかなと思いながらも、昼過ぎまで仕事。昼飯をおえて、「んー、やっぱ気になる」。「行ってみっか」。
2015年5月23日(土)14:00〜、参加してきました。
イベントは2部構成(とボーナストラック1つ)でした。1部は、写真の撮影者の大橋弘さんと取材の企画を立て記事を書いた睦田幸枝さんのスライドトーク。2部は、新潟県上越市にある坂口謹一郎記念館の頸城杜氏による「酒造り唄」の披露。
1部・スライドトーク |
もともとの写真は、大橋さんと睦田さんの二人で日本中の伝統食、発酵食の生産者を訪ねた雑誌『サライ』の連載企画がもとになっています。月2回、7年半、全国176ヶ所を訪ね歩いてきたそうです。
睦田さんが取材先のリストアップとライティングを、大橋さんが撮影を担当。そのお二人が、取材した記事をもとにトークが展開していきました。
睦田さんは伝統食をこう定義します。
・健やかな素材でつくられるもの。
・その土地でとれた旬なもの。
・昔からの手法を守っているもの。
取材してこれらた先も実際にそうで、500年、1,000年前と同じ手法で作っているものが多くあったそうです。また、それくらい昔だと、ストップウォッチも温度計もありませんでした。科学の発達もまだまだです。そういう時代に伝統食、発酵食をつくるときどうしていたかというと、「祈る」ということをしていたそうです。いまとは比べ物にならないくらい、食事は貴重なものでした。ありがたく、いただく、という思いとともに食事をしていたんですね、と紹介。
そこからは、各地の取材写真にあわせて一気にトーク。約1時間半。
取り上げられた題材の一部ですが、
金山寺味噌、純米酢、黒酢、きび酢、鮒ずし、ハタハタ飯ずし、かぶらずし、ふぐの子粕漬け、碁石茶、阿波番茶、大徳寺納豆、浜納豆、ねさしみそ、麦味噌、鯖へしこ、しば漬け、くさや、すんき、山川漬、黒糖酒、醤油、守口漬...。
ツイートにも書いたように、大橋さんの写真は、食材の表情がとてもよく出ていて、思わずうっとりするような写真でした。スライドショーで旅行しているような、旅心地、夢心地になりながら、日本にはまだまだ食ってみるべき、その豊かな歴史と伝統を知るべき食材がたくさんあるんだなと思いました。
酒造り唄 |
そして2部は、坂口記念館の頸城杜氏による「酒造り唄」の披露です。
坂口記念館は、醸造学、麹菌の研究、応用微生物学の権威として知られる坂口謹一郎博士の業績をいまに伝える施設です。また記念館のある上越市頸城地区は、全国でも有数の杜氏集団がいたことでも知られています。
実際に頸城杜氏として、長く酒造りをされてきたお二人と記念館の方の三人で唄の披露がありました。「酒造り唄」は約400年前から、自然発生的に、歌い継がれて来た仕事唄です。
出稼ぎが多かった冬場の酒造り、郷里の家族への思いや懐かしさを込めて歌われてきたそうです。またその節回し自体が、作業の際、みなの息を合わせる意味ももっていました。
そして、今回の会場となったのは新潟市中央区馬越(沼垂地区)の堀川醸造の味噌蔵です。
堀川醸造は明治27年創業の創業ですが、平成26年秋、約120年と続いてきたその歴史に幕を下ろしました。この味噌蔵もこの秋には取り壊される予定だそうです。すでに操業は止まっていますが、今回、イベント会場となりました。
会場を囲んだ味噌樽には、1本で9〜12トンの味噌が仕込まれていました。昭和48〜49年の最盛期で120本、1000トンほどが仕込まれたそうです。最後は300トンほどになっていったそうです。
昭和39年の新潟地震のときには、その樽の半分ほどが地盤沈下によりもぐってしまい、4年かかってそれらを戻したそうです。
堀川醸造はもともと竜が島(現在地より信濃川河口より)にあったのが、大正末期の沼垂大火に遭い、いまの場所に移ってきました。その後、工場や事務所など建て替えながら、生産を続けてきましたが、昭和2年に建てられたこの一棟だけは当時のまま。最後は塩の倉庫として使われていました。
いまはその役目を終え、静かにそこにありました。
はじめにボーナストラックと書いたのは、イベント終了後、堀川さんから工場案内をしていただいたからです。工場内を撮影した写真が以下です。
天井が黒くなっている↑のは麹菌だそうです。「いまもここに住んでますよ」。
以上です。ひとつの味噌蔵の歴史の終わりに、奇跡のようなコラボイベント。参加してよかったです。
味噌樽 |
会場を囲んだ味噌樽には、1本で9〜12トンの味噌が仕込まれていました。昭和48〜49年の最盛期で120本、1000トンほどが仕込まれたそうです。最後は300トンほどになっていったそうです。
昭和39年の新潟地震のときには、その樽の半分ほどが地盤沈下によりもぐってしまい、4年かかってそれらを戻したそうです。
塩の倉庫 |
堀川醸造はもともと竜が島(現在地より信濃川河口より)にあったのが、大正末期の沼垂大火に遭い、いまの場所に移ってきました。その後、工場や事務所など建て替えながら、生産を続けてきましたが、昭和2年に建てられたこの一棟だけは当時のまま。最後は塩の倉庫として使われていました。
いまはその役目を終え、静かにそこにありました。
堀川さん |
はじめにボーナストラックと書いたのは、イベント終了後、堀川さんから工場案内をしていただいたからです。工場内を撮影した写真が以下です。
天井が黒くなっている↑のは麹菌だそうです。「いまもここに住んでますよ」。
以上です。ひとつの味噌蔵の歴史の終わりに、奇跡のようなコラボイベント。参加してよかったです。