2012年12月22日土曜日

「ダンス・ダンス・ダンス」友人の薦めで村上春樹を読み進める


ニヒリズムに陥りがちな時代に、虚ろな希望を取り戻すかのような物語だった。

とは言ってもこの物語が発表されたのは、1988年のこと。村上春樹さん39歳のとき。

現在とも、私のいまとも状況は違った背景で書かれている。しかし、ところどころで「あぁ、そうそう俺もそんなこと思ったことある。よく言ってくれた」といった箇所があった。私がこれまで体験してきたことの中でも、言葉にならなかったものをするすると表現してくれているようにも感じて、爽快感すらあった。また、登場人物の気持ちとシンクロしていく中で、「癒し」のような効果もあるのではと思った。物語によって癒されるということもあるんだな、と。

話は飛んで...。読後、たまたまぱらぱらと手に取った本がある。『西洋哲学史 近代から現代へ』熊野純彦著(岩波新書)である。いまだ『ダンス・ダンス・ダンス』の物語にひっぱられている私に、ぴったりと中るような言葉。



「生は夢と行動のあいだにある」
「夢みるときのように、過ぎ去ったものの重みのすべてを未来に懸けて行為するとき、ひとは真に自由であることになるだろう。」
「夢みることと、行動することとのあいだに、現実の生がある。」
(「第13章 生命論の成立」フランスの哲学者アンリ・ベルクソンを説明するところです。)

なんだかこれって『ダンス・ダンス・ダンス』の読後感とも重なるな。私の理解力では哲学の本はほとんど理解できなかったので、この章に目を通したのみです...。村上春樹さんがこの物語にどのような哲学的メッセージを込めたのかはわかりませんが、私には近い印象を与えました。


以下は、『ダンス・ダンス・ダンス』で印象に残った箇所のメモです。
─────引用1─────
それはある女性誌のために函館の美味い食べ物屋を紹介するという企画だった。僕とカメラマンとで店を幾つか回り、僕が文章を書き、カメラマンがその写真を撮る。全部で五ページ。女性誌というのはそういう記事を求めているし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。
僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。

─────引用2─────
雪が降れば僕はそれを効率良く道端に退かせた。
一片の野心もなければ、一片の希望もなかった。来るものを片っ端からどんどんシステマティックに片付けていくだけのことだ。正直に言ってこれは人生の無駄遣いじゃないかと思うこともないではなかった。でもパルプとインクがこれだけ無駄遣いされているのだから、僕の人生が無駄遣いされたとしても文句を言える筋合いではないだろう、というのが僕の到達した結論だった。我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。

─────引用3─────
僕は揺れる蝋燭の炎をしばらく見ていた。僕にはまだ上手く信じられなかった。「ねえ、何故僕のためにわざわざそんなことするんだ? わざわざ僕一人のために?」
「ここがあんたのための世界だからだよ」と羊男は当然のことのように言った。「何も難しく考えることなんてないのさ。あんたが求めていれば、それはあるんだよ。問題はね、ここがあんたのための場所だってことなんだよ。わかるかい? それを理解しなくちゃ駄目だよ。それは本当に特別なことなんだよ。だから我々はあんたが上手く戻って来られるように努力した。それが壊れないように。それが見失われないように。それだけのことだよ」

─────引用4─────
僕は暗闇のなかで溜め息をついた。
オーケー、これは現実だ。間違いない。繋がっている。

─────引用5─────
「あまり仕事が好きじゃないの?」
僕は首を振った。「駄目だね。好きになんかなれない、とても。何の意味もないことだよ。美味しい店をみつける。雑誌に出してみんなに紹介する。ここに行きなさい。こういうものを食べなさい。でもどうしてわざわざそんなことしなくちゃいけないんだろう? みんな勝手に自分の好きなものを食べていればいいじゃないか。そうだろう? どうして他人に食い物屋のことまでいちいち教えてもらわなくちゃならないんだ? どうしてメニューの選び方まで教えてもらわなくちゃならないんだ? そうしてね、そういうところで紹介される店って、有名になるに従って味もサービスもどんどん落ちていくんだ。十中八、九はね。需要と供給のバランスが崩れるからだよ。それが僕らのやっていることだよ。何かをみつけては、垢だらけにしていくんだ。それを人々は情報と呼ぶ。生活空間の隅から隅まで隙を残さずに底網ですくっていくことを情報の洗練化と呼ぶ。そういうことにとことんうんざりする。自分でやっていて」

─────引用6─────
僕はユキの手を握った。「大丈夫だよ」と僕は言った。「そんなつまらないこと忘れなよ。学校なんて無理に行くことないんだ。行きたくないなら行かなきゃいい。僕もよく知ってる。あれはひどいところだよ。嫌な奴がでかい顔してる。下らない教師が威張ってる。はっきり言って教師の八〇パーセントまでは無能力者かサディストだ。あるいは無能力者でサディストだ。ストレスが溜まっていて、それを嫌らしいやりかたで生徒にぶっつける。意味のない細かい規則が多すぎる。人の個性を押し潰すようなシステムができあがっていて、想像力のかけらもない馬鹿な奴が良い成績をとってる。昔だってそうだった。今でもきっとそうだろう。そういうことって変わらないんだ」
「本当にそう思う?」

─────引用7─────
「システム」と彼は言った。そしてまた耳たぶを指でいじった。「もうそういうものはあまり意味を持たないんだよ。手作りの真空管アンプと同じだ。手間暇かけてそんなもの作るよりはオーディオ・ショップに行って新品のトランジスタ・アンプを買った方が安いし、音だって良いんだ。壊れたらすぐ修理に来てくれる。新品を買う時には下取りだってしてくれる。考え方のシステムがどうこうなんて時代じゃない。そういうものが価値を持っていた時代もたしかにあった。でも今は違う。何でも金で買える。考え方だってそうだ。適当なのを買ってきて繋げばいいんだ。簡単だよ。その日からもう使える。AをBに差し込めばいいんだ。あっという間にできる。古くなったら取り換えりゃいい。その方が便利だ。システムなんてことにこだわってると時代に取り残される。小回りがきかない。他人にうっとうしがられる」
「高度資本主義社会」と僕は要約した。

─────引用8─────
君と話していると、だんだんそういう感じがしてくる。細かいことにいちいちこだわるくせに、大きなことに対しては妙に寛大になる。そういうパターンが見えてくる。面白い性格だ。そういう意味ではユキに似てるよ。生き延びるのに苦労する。他人に理解されにくい。転ぶと命取りになる。そういう意味では君らは同類だよ。

─────引用9─────
「世の中にはいろんな人生がある」と僕は言った。「人それぞれ、それぞれの生き方。Different stroks for different folks.」
「スライとザ・ファミリー・ストーン」と五反田君はぱちんと指を鳴らして言った。同世代の人間と話していると確かにある種の手間が省ける。