『岡本太郎の仮面』貝瀬千里 著・藤原書店 |
(289p.)「現実をしっかり捉えるなら、そこにはきっと矛盾があり、虚と実
今晩は、前から気になっていた、『岡本太郎の仮面』(貝瀬千里 著・藤原書店)にようやく目を通すことができました。この本は貝
岡本太郎が一貫して追求してきた「仮面」「顔」「眼」を時系列に
途中、ヨーロッパのジョルジュ・バタイユやマルセル・モースとの
貝瀬さんとは、面識はありませんが、同じ土地にこんな研究をして
本当の自分ってなんだろう?問うほどに見えなくなる素顔。薄っぺ
熱いメッセージでした!
以下に特に印象に残った箇所を。ピンときたらぜひ著書にあたってみてください—————————————
(25p.)「矛盾を抱えもつことこそが、実は人間を人間らしくしているのだと岡本には思えた。人間は、『自分と、自分を越えたものとを、いつも自分の内にもと、そしてその双方をしっかりとつかんでいなければ本当には生きられない」。そういう存在であるからこそ、絶望的にもその矛盾を乗り越えようとするという。」
(57p.)「バタイユは、初めから打ち解けた雰囲気で語った。『今日、すべてが精神的にいかに空しくなっているか。憤りをもって、システィムに挑む同士が結集して、世界を変えて行かなければならない』。国境や人種を問題にせず、精神のつながりによってこそ結ばれるのだといわれ、孤独を感じていた岡本は強く励まされた。」
(89p.)「岡本は軍隊という集団に働く感覚の麻痺や、その人間模様を観察していた。日本の戦闘機ならば墜ちるはずがないと信じ込んでいた仲間の兵士たちが、日の丸の国旗をつけた戦闘機が墜ちるのを見ても、墜ちたのはアメリカだと喜んでいたこと。」
(108p.)「マルセル・モースの人類学に触れた岡本にとって、ジャンルを問わないあらゆる表現形態が、人間の知覚に働きかけるメディア的可能性を有していた。絵画や仮面のほか、仏教美術や踊り、しぐさや刺青、呪術や生活用具など、人間の営み全体にわたって美的現象を見いだしたモースのように、時代や分野を超えて、メディアと身体との感応が見出された。そうした岡本の柔軟な視点は、脱領域化し、全体的になってきた現代美術を先どりしていた感がある。」
(115p.)「反復される所作、連打される太鼓のリズムは、一見無意味なようでいて、身体に時と空間の変容を知らせ、変貌のための準備をさせているのであろう。恍惚を呼ぶリズムが、日常的な意識を酩酊させ、別次元の感覚を紅葉させていく。ハレの時の調べが、生者と死者が入り混じる〈祭り〉へ導く「道行く」となる。そして集団全体が、仮面の変貌を受け入れ、仮面の世界に身を慣らし、自身をデフォルメしていく。」
(167p.)「(縄文)土器を埋めつくす文様は、単なる装飾ではなく、自然の神々を恐れ敬う、呪術的な祈りの精神が反映していると見えた。狩りで殺す動物を、殺すからこそ同時に神として崇め、その精霊へ祈りを捧げる。恐ろしくも恵み深い自然を敬い、猟に際して礼節をつくし、霊を慰め、次回も決まりを守ることを約束する。熊狩りを行う猿股の人々のように、神秘的な自然へ呪術的に働きかけ、交流しようとする人間の祈り——それが破綻や左右不均衡なよじれ、立ち上がりうねるダイナミックな文様と造形に現れている。」
(232p.)「パリ時代、岡本はバタイユらと『悲劇の研究会』でギリシャ悲劇を中心に悲劇について論じ合い、『生きるということは、つきつめれば悲劇しかあり得ない。人間存在は強烈な矛盾の中に運命を賭けて生命を貫いているのだ』という考えを共有していたという。」