2014年11月17日月曜日

佐久間裕美子「ヒップな生活革命」ツアーin北書店に行ってきました


入口の看板

アメリカ・ニューヨーク在住の佐久間さんがリーマンショックを挟んで感じたアメリカでの消費観、価値観、生き方の変化をまとめたものです。大企業主導による大量消費ではなく、身近な衣食住から自分たちの手で、仲間で、土地で生活をつくっていこうとするムーブメント=「生活革命」。またそうした生き方をしている人やお店、取り組みを「ヒップ」と呼ぶようです。

今回のトークツアーは、熊本、福岡、京都、大阪、東京などを回って行われ、新潟が最終着地点。佐久間さんは「ツアーをやってきて、日本にもすでに『ヒップ』な人たちはたくさんいるんだなってあらためて思いました」「今度は日本の取材もしてみたいですね」と話していました。

イベントの前に本を読んでみて、私もそう思っていたのでその一言で、共感と安心が。この新潟の街にもそういう人、お店、取り組みはありますよね。

トークでは、「ヒップな生活革命」をインターネットの普及、活用が後押しした面があるけれど、ツイッターのフォロワーがたくさんいたり、全国誌で取り上げられて有名になっていくことと、実際に個人経営の小さな本屋で本を買う人の数、売上は比例しないという北書店・佐藤さんの悩みをぶつける場面も。

するとニューヨークの個人経営の書店でも、家賃を下げてもらうかわりにテナントの掃除をする本屋や、地元の美術学校と連携してトートバックを商品化したりなど、「それぞれいろんな工夫をしながらやっています」という話が。あとニューヨークでも個人経営の書店主を取材すると、「ほとんどの人は機嫌悪いですよ、話の9割は文句だし(笑)」と佐久間さん。

ただそこには佐久間さん自身の本屋への強い思い入れもありました。

「日本にいた頃は、やー、もうここでは暮らしていけないって思ってました。友達も一人くらいしかいなかったし。家の中にも居場所がなかった。だから近所の本屋が開いてるとそこに長居してたし、そこが居場所みたいなもんだった」

という背景もあったそうです。さらにこんな言葉も。

「(こういう時代に個人経営の書店をやってるなんて)もう存在自体が啓蒙的」。

並々ならぬシンパシー。

それでも現実は、郊外型ショッピングモールや大手チェーン店で消費をしているという人がやはり圧倒的大多数です。新潟の街だけをみても、例えば5年、いや1年というスパンでも多くのお店がシャッターをおろしてきました。

会場からの意見で、「イオンが悪いみたいに言われることもあるけど、僕はイオンにも行くし、北書店にも来る。どっちも楽しんでいます」と。

それを佐藤さんは「俺はプロレスでだいたい説明できると思ってるよ」と独自の言葉で説明。大型店も個人店も表裏一体で、どちらもあって、どちらも引き立て合っていると。それを「プロレスでいうなら、ジャイアント馬場とアントニオ猪木、全日と新日の関係のようで、お互いを批判しながら、そうすることによって支え合ってるんだよ」と。

ここで佐久間さんも会場も納得と爆笑。
「佐藤さんはどっち?」
「俺は馬場ね。なんとなく暗さにもひかれるし(笑)」

ほかにもたくさん聞きどころはあったと思いますが、私が印象的だったのはこんなところです。

アイデアインクシリーズ
佐久間さんの本は左奥で
積み上がっているのです

ここからは私の雑感です。

私は10代の頃、アメリカのスケートカルチャーになによりも影響を受けてきました。中学、高校と教科書よりも「THRASHER」や「Transworld Skateboarding」を開いている時間のほうが長かったくらい。スケーターである彼らこそが先駆的に「生活革命」をやってきたような人たちだよなぁと思いました。

80〜90年代、アメリカのスケーターたちは自分たちでブランドを立ち上げ、スケートボードを作り、服を作り、靴を作り、ビデオを撮り、仲間の作った音楽を入れ、プロモーションでツアーを組んで世界中を回っていました。そしてそれを伝える雑誌メディアもスケーターによるものでした。

日本の片田舎・村育ちの少年にとってこのアメリカのスケートボードシーンはなによりの憧れの的でした。わたしは、私にとっての「ヒップスター」=アメリカのスケーターから、そのインディペンデントな生き方、(「ヒップ」な)アティテュードを学んできました。

10代の頃、あれだけ毎日乗ってたスケボーもいまではたまに気分転換で乗るくらいです。それでも、今年スニーカーを買い換えるときやっぱりスケートブランドの「emerica」を購入。スケータースピリットみないなのが抜けないんです。

佐久間さんの話や著書から、そんな自分の原点をあらためて確認していました。

それといま私が編集発行している『LIFE-mag.』もまたこの「生活革命」にすこしは関係するのかなと共感とともに聞いていました。思い立ったのは2007年夏、そして2008年6月に創刊した小さなローカルインタビュー誌です。

自分たちの暮らす地域には、テレビには映らない、マーケティングされない、もっと多様な生き方や価値観を持った人がいる。そしてそのことを知ること、問題を考えることが、逆に世界とつながっていくことになる。

はずだ・・・、という(当時24歳・新聞配達店勤務による)思い込みと使命感にかられてはじめたものでした。

いまだ、文章や写真、デザイン、企画、コンセプトなど雑誌を構成する多くのことがずいぶん未熟だし、手触りも歪だと思います。経営的にも安定した背もたれは何もないし、毎号が綱渡りです。些細な風向きの変化次第で・・・、という状況です。

ときに革命は短命に終わります。

どうすれば長く続くのか、自分の中で明確な答えはありません。ただアメリカに、日本にも、日本の他の街にも、そして新潟にもいる、「生活革命」者の存在にすこし背中を押されました。

とにかくいま持てる力を出し切ること、かな。
あとはどうなるか、、、わかりませんね。