2016年6月1日水曜日

Life-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻 編】番外編|野積杜氏・髙綱 強インタビュー

野積杜氏

『Life-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻 編】』の番外編として、[寺泊]の野積杜氏・髙綱 強さんのインタビューを掲載します。

かつて冬の雪深い時期になると越後の男たちは各地の酒蔵に出稼ぎに出ていました。明治以降には約2万人もの越後杜氏が全国各地の酒造りを支えていたといいます。

越後杜氏には、大きくわけて頸城杜氏(吉川・柿崎)、刈羽杜氏(鵜川・鯖石川・渋海川上中流沿い)、三島越路杜氏(塚野山・岩塚・来迎寺)、野積杜氏(寺泊)の4つの集団がありました。髙綱さんはその野積杜氏になります。

野積の男たちが杜氏として出稼ぎに出るようになったのは、江戸中期頃(1750年代)からと言われ、当時、野積を藩下においていた奥州白河藩(福島県白河市)への出稼ぎがはじまりとされています。また、野積には「弥彦の神様が野積の衆に米作りと酒造りを教えてくれた」との言い伝えもあり、野積と酒造りは歴史的にも深い関係があります。

野積は海と山に囲まれた地形のため、農地が少なく、漁業や茅葺業が主な職業とされてきました。そのため、冬場、酒蔵への出稼ぎは生活を支える貴重な収入源ともなりました。

全盛期には180人ほどの野積杜氏がおり、杜氏の里とも呼ばれるようになりましたが、酒造りが機械化されると共にその人数は減り、現役で働いている杜氏は現在1人となりました。

髙綱さんは中学卒業後の昭和27年頃から野積杜氏の1人として働き、平成23年、74歳までの約60年間、酒造りに携わってきました。

インタビューはいまLife-mag.に見習いで来ている村山亜紗美さんが担当しました。以下、インタビュー文です。

——酒蔵ではいつごろから働き始めたんですか

中学卒業後からですね。夏は漁師や茅葺屋根職人として働いていました。
漁師の仕事は「板子一枚下は地獄」とも言われる厳しい仕事で、最初の2年くらいは船酔いして大変でしたね。慣れてきたら大丈夫になりましたが。
茅葺き屋根職人としては、自転車をこいで新潟市内の上所、近江、内野、五十嵐浜などに仕事に行きました。私は小学生の頃、下校途中に屋根を葺いている職人をみると「屋根葺きの黒金玉〜!」とかって言ったりもしてました(笑)。自分でその仕事をするようになってからわかりましたけど、煤(すす)で真っ黒になるんですね。
そして、冬場、12月の下旬頃から酒蔵へ働きに行きました。

——どこの酒蔵で働いたのでしょうか

私は湯沢の白瀧酒造に行くことになりました。
どこの酒蔵で働くかというのは、自分の親と杜氏さんとの間で話がされ、地域の若い者の働き先が決まっていくんです。「あの人は優秀だから、そこの家の息子をもらおう」というように杜氏さんが次の仕込み期間に、自分の下につけて働く人を集めていくんです。できる人ばかりが集まる所もあれば、毎年人が変わるようなところもあって、それは杜氏の外交能力次第でした。

——酒蔵では具体的にどんなお仕事をしていましたか

最初は米洗いでした。
たとえば吟醸酒は、7℃~8℃の冷たい水でゆっくり丁寧に洗わなきゃいけないんです。「胴割れ」といって、米が割れないように冷たい水でゆっくり水を吸わせていくんですね。
水の温度が高いと、一気に水を吸い込んでしまって米が割れてしまうので。「胴割れ」してしまうと、計算以上の水を米が吸水してしまうことになるので、温度管理は重要なんです。
水の温度がなかなか下がらない時、水を入れているタンクに雪を入れて温度を下げようとしたことがありましたが、それを杜氏さんに見つかってしまって、すごく怒られたねぇ(笑)。「雪と水は成分が違うからお酒の味も変わってしまう」とその時、教えられました。
軟水、硬水などの水の性質や成分も考えて調合していくんです。杜氏の力は水をみる力にかかっているとも言えます。低温で仕込んでいれば良いお酒が出来るというわけでもないし。その都度成分を調整したり、温度を上げなければいけない時もあるからね。

——他にはどんな仕事をされていたんでしょうか

3~4年経つと、現場ではなくてお酒の調合の仕事なども任されるようになりました。清酒メーターで、お酒の甘辛を調整するんです。これはお酒の入ったシリンダーに入れてお酒の甘辛やアルコール度数を測る浮標です。

かつて実際に使用していた清酒メーターを見せてもらった

また、タンクごとに違う酒の味や風味、色を同一にするために味見をして調整する作業もありました。先輩杜氏さんの教えはあったけど、自分で本を読んだり数学を学んだり、先輩の仕事の様子を見たりして、仕事を覚えていきました。先輩が捨てたメモを拾って、参考にすることもありましたよ。とにかくいい酒を造ろうと、杜氏研究会などにも入れてもらって仕事が終わった後にも勉強しました。

——酒蔵ではどのような生活だったのでしょうか

杜氏さん以外は、全員で15~20人がひとつの部屋で雑魚寝して生活していました。床に就くまではみんなで男女の話や世間話をして過ごしました。
ただ、白瀧酒造はとくに勉強させられる蔵だと言われていて、本当に勉強させれました。夜になっても若い者は杜氏さんから「おーい、そろばん持ってこーい!」と呼ばれて、6、7人でそろばんを教えられましたね。

——教育もしっかりとされていたんですね

それから、若い者は夜中に起きて仕事もしなくちゃいけないんです。
発酵管理のために、「泡番」という人が必ずついていて、樽の中を長い竹の棒でずっとかき混ぜていなくてはなりません。順番に1~2時間ずつ仮眠をとっていくんです。
たまに誰かが目覚まし時計を止めて二度寝してしまうと、お酒が発酵してしまって蔵中泡だらけになってしまうこともありました。当時は人がつきっきりで竹の長い棒でかき回してましたが、今はモーターが回ってくれますね。

——手作業の工程も多く、生活のほとんどが仕事のようだったんですね

朝、杜氏の補佐係である頭(かしら)さんが「番割り」といって、誰が何時にどの仕事に就くかを黒板に書き出し、それを見て仕事が進められていました。
それから、酒蔵に入ったばかりの頃は、杜氏さんの布団敷きから洗濯など身の回りの世話までやらなければなりませんでした。
しかし、当時の河合高明杜氏は「自分でやるからいいよ」と言ってましたね。河合さんも野積杜氏でした。出しゃばったり、気を遣わせるようなことはしないで上手に引っ張っていくタイプの方でしたね。
若い者を叱るときも人前で恥をかかせるようなことは絶対にしませんでした。一対一でその人ときちんと向き合って話すような杜氏でしたね。

——すこし調べたんですが「酒造り唄」を唄って作業もしたのでしょうか

そうですね。各杜氏集団ごとにあって、私たちも習って唄いました。
「米とぎ唄」や「もとすり唄」などたくさんあったね。その酒蔵の杜氏さんが野積出身だと野積の「酒造り唄」だったりしたね。「唄半給金」という言葉があって、酒造り唄が歌えないと、一人前にはなれないともいわれたくらい重要なものでした。
一人が歌って、次の人が歌って、と繋いでいくんです。その酒造り唄の節回しや長さで、作業の時間を計っていました。

——ストップウォッチのような役割ですね

今年も「新潟酒の陣」に呼ばれて唄ってきましたよ。
それから「酒屋言葉」といって仲間内で話す暗号のようなものもありました。
味噌は「げんしち」、米は「まつべい」とかね。例えば「当内は潮が流れないの〜」というのは「ご馳走がない。ご飯がおいしくない」という意味なんです。
各地を渡り歩くから、出稼ぎにいった先で仲間同士だけで話せるようにできたんだと思います。
「酒造り唄」も「酒屋言葉」も故郷から離れた土地で冬を過ごす間、仲間同士で励まし合って仕事をするのに大切なものだったと思います。

——冬場の出稼ぎとして酒蔵に行くというのは、いつ頃まで続いたのでしょうか

私は25歳の時に結婚して、それからは通年で白瀧酒造に勤めました。
白瀧酒造で働き始めた頃、風間保男という人が、白瀧を出て杜氏として働くということになりました。そこで、ついてきて手伝ってくれないかとなり、一緒に愛知県の酒蔵に1年間行ったこともありました。
ほかにも岐阜県の焼酎を造ってる蔵に行ったこともありました。若い者はあちこち働きに呼ばれるんですよね。その後、河合杜氏に「白瀧に戻ってこい」と呼ばれてまた白瀧に戻りました。それから65歳で辞めるまで勤めましたね。

現役時代の写真

河合杜氏が亡くなられてからは、私が杜氏として働くようになりました。後で聞いた話ですが、私の父親が河合さんに「あなたの後を継ぐのは自分の息子しかいない」と話していたようです。私の父親も北海道でずっと杜氏として働いていたので、そう言っていたと知った時は、父親からも認められたようで嬉しかったですね。

——杜氏として大切にされていたことはなんでしょうか

酒造りというのは、人の心を読み取れなければだめだし、人を引っ張っていく力がなければいけません。そこではやはりお互いがよく話し合うことですね。
あと、自分の酒蔵で造った酒を故郷に持って帰った時にも、他の蔵に出稼ぎに出ている同郷の仲間同士で意見交換をしたりして、さらに負けじと酒造りを考えてきました。切磋琢磨できるような環境があったのはよかったですね。

白瀧酒造ウェブより転載

——白瀧酒造の代表的な銘柄である「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」の開発エピソードについて教えてください

「20歳の女の子でも飲めるようなお酒」を造れないか、との社長のアイデアに対し、試作を繰り返し造ったものです。軽くて飲みやすい日本酒の先駆けとして、平成5年頃から発売したと思います。
これがかなりのヒットとなり、私が働きはじめた頃、おそらく1,500石ほどだった生産量が24,000石ほどまで伸びました。

——わたし(村山・21歳)も飲んでみましたが、ほんとうにスッキリとしていて飲みやすかったです。時代や会社の規模も変わっていくと様々な変化もありそうですね

そうですね。パソコンでの仕事も増えてきて、55歳の時には六日町の職業訓練学校に仕事が終わった後に通ってパソコンも習いました。新潟の杜氏でパソコンをできる人は当時ほとんど居なかったと思いますよ(笑)。
また、晩年は北海道から沖縄まで営業の仕事もしました。営業マンだけでなく、杜氏が直接会社に行って話すと、トップの人の目の色が変わるんですね。

——白瀧酒造はいつまで勤めていたのでしょうか

65歳までですね。たまたまなんですが白瀧酒造を退職した帰りの上越新幹線の中で、醸造や発酵を研究していた日本醸造協会の吉田清先生に会いました。するとそこで福島県の料理酒を製造している蔵に行ってみないかと紹介を受けました。そして、また7年ほど勤めることになったんです。

——酒造り人生は終わらなかったと

日本酒は味が重くなるのを防ぐためアミノ酸を抑えなければなりませんが、料理酒は逆に料理の旨みを引き出すためにアミノ酸を増やすんです。そこでもまたいろいろと勉強させられましたね。
さらにその後は、群馬県の酒蔵に冬の間だけ2年通いました。私が通う前、「火落ち」といって仕込んでいる酒が腐ってしまうことがあると相談を受けました。そこでは衛生管理、整理整頓など基本的なことを指導しました。福島崇さんといって、若く優秀な杜氏がいたので、私が長く居ていては彼が伸びないなと思い、さっと辞めました。

——中学卒業後から74歳まで、ほんとうに一途で長い酒造り人生でしたね

いい時代もありましたが、もちろん苦労もありました。
好きな言葉は「温故知新」です。古いものから学び、基本を身につけ、新しいものも求めていく。大好きな言葉だね。最近は、習字を習いはじめたり、庭木の手入れをして四季を感じたりして過ごしていますよ。

取材後、酒造りの神様を祀る松尾神社(寺泊野積)にて