2011年5月6日金曜日

「寺子屋」あるいは「私塾」について001



今回の記事も4月の上旬の頃に思っていたこと。


以前から江戸期の教育に漠然とした興味があったので、いくつか文献をあたってみることにした。私にとってそれは「寺子屋」や「私塾」といったものがどのように機能していたのか?ということだった。

まずは、社団法人農山漁村文化協会から19881215日に発行された『人づくり風土記(15)ふるさとの人と知恵 新潟』を紐解いた。

この本は各章ごとに教員や大学教授、郷土研究家などが分担して書かれているもの。まずは波多野清子氏(十日町市立川治小学校)の章を私なりに要約し、メモ用に記したもの。


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越後の寺子屋のはじまりは、天和年間(168184年)に北蒲原郡中条町築地に西村平作が開いた翁亭が最も古いもの。

寺子屋のほとんどは1020年間ほど開業し、その師匠一代で廃業するのが一般的。
師匠の多くは僧侶、医師、士族として本業を持つ人が、そのかたわら営むことが多かった。
寺子の家の経済状況に合わせて、野菜、薪炭などの生活必需品を五節句に進物として贈っていた。
寺子の数は40名以下がほとんど。
村上市の磯部順軒寺子屋と大滝章九郎寺子屋は100人以上かかえていた。
入門の年齢は78歳が多く、在籍期間も25年とそれぞれに異なった。
それ以上に在籍して、助手となる者もいた。

寺子屋では読み、書き、算盤が中心に教えられた。
その他に、漢学、国学、詩歌、作文、華道、裁縫があった。

教科書は江戸や京都から伝わったものを師匠が写した「往来物」を使った。
また、「村名付」という寺子屋周辺の地名・地理を学ぶ教科書もあった。
三条市宝塔院住職隆全の書いた「三条往来」などがあった。
「商売往来」「百姓往来」など、寺子の家の職業に合った教科書を使ったりもした。

新井市の小池宇左衛門の寺子屋の「寺子式目」
一、机にすわって、むだ話やあくびをしたり、居眠りをしたり鼻をかんだり、努めて練習しない人を手本にすることは、悪いことです。
一、紙を散らかしている者は、上手になりません。
一、子供が煙草をすったり、酒を飲んだりしてはいけません。
一、両親には出かけることや帰ったことを知らせましょう。

中蒲原郡村松町の柄沢惣次寺子屋の「制詞の条々」
一、手習いに退屈せずに、精を出しましょう。
一、相弟子、兄弟はもちろん、友だちと仲よくしましょう。
一、店先で買い食いをしてはいけません。
一、遊びに出ても、憎まれ口を言ったり大人に無礼に振る舞ってはいけません。
一、碁、将棋、歌かるたなどはしてもいいけれど、やりすぎてはいけません。



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寺子と呼ばれた生徒の授業料が家庭の経済状況に応じて、決められていたのが興味深い。現在のように一律~いくら!~というものより柔軟に対応していた。現在、同じコトをやれるとは思わないが、その状況を想像すると面白い。

「三条往来」などは私たちも手に取ることが出来るのだろうか?読んでみたい。

寺子屋ごとの決まりごとなどは、現代の子ども達にも通じる普遍的なことも含まれる。教育はいま、どれだけ進化したのだろうか?退化したのだろうか?