株式会社吉川弘文館より昭和57年7月10日発行された『近世史の研究 第二冊 国学と洋学』著者は伊東多三郎氏。明治42年の新潟県長岡市生まれ、著作が発行されたときは埼玉県大宮市に住まわれていたそうです。東京帝国大学名誉教授。
定価5,800円、高価な本なのでもちろん図書館で借りて読むことにした。
以下に要約メモ。
段落ごとにつながりがない箇所もあるので、箇条書きメモとして記します。
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国学は江戸時代に興った学問・思想体系。
しかし、江戸期に学問といえば大陸より受け入れられた儒学とされていた。
また宗教でも仏教が最も盛んで、これも起源は印度であった。
そこに、これ等が渡来する以前の日本の思想の顕現を計ることを目的として国学は興った。国学者は古事記・日本書紀・万葉集などを研究した。
(148p,)「越後の文化は信濃川・阿賀野川二代河川の流域に開けた広大な越後平野の土壌を度外視しては語ることができない。越後平野のように、水田農業が典型的に発達した地方では、新田開発、水利施設の整備、村落の増加、地主勢力の擡頭、地域的中心都市の簇生などを条件として、独自の文化史的性格をはっきり見ることができる。」
江戸初期の越後の石高は40数万石が幕末には100数十万石に増加。村落の数で言えば、初期に3000余村だったのが、幕末には4000を遙かに超えた。越後の興隆に教育が果たした役割を評し、そして、庄屋・地主層が担った役割をこう分析する。
(149p,)「彼等の大部分は、その土地の草分けとして根強い潜勢力を持ち、数代にわたって郷村社会の家長的権威と徳望とを蓄積して来たのであるが、それはただ社会・経済生活の方面でなく、信仰・学芸の方面においても顕著である。或いは居村に神社を勧請し、寺院を建立して郷民の信仰の中心としたり、或いは家塾を開いて郷党の子弟の教育に努めたり、或いは来遊の学者、文人、画家などを滞在させて教を受けたり、進んでは江戸に遊学して、有名な学者に師事し、幕府の昌平坂学問所に入学する者さえあった。」