そして、高木靖文氏(新潟大学)の章の要約メモ。
刈羽郡の三余堂です!
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近世初期の越後・佐渡の学問は海運の便もあり、京都・大阪からの影響が強かった。
有力諸藩から家臣として学びに出る者もあれば、藩とは関係なく自ら遊学に出向く者もあった。
儒学・医学・本草学(薬学)などが伝えられた。
刈羽郡北条村大字南条にあった私塾「三余堂」。
塾主は藍沢要助、字を子敬、南条をその号とした。
南条は寛政4年(1792年)生まれ、父は三島郡片貝村の郷塾・朝陽館の教師をしていた北溟。
朝陽館は村内の有力者が儒学を修め江戸にいた北溟を呼び、共同設立した近世越後では珍しい形であった。
北溟がリューマチに罹り亡くなったため、母方の実家に移り住んだ先が刈羽郡であった。
南条は江戸に出て折衷学を学んだ後、29歳で帰郷して三余堂を開いた。
学舎は東西5間、南北15間の広さで100人の門人を収容することが出来た。
その名声は会津(福島県)、能登(石川県)、尾張(愛知県)から入門者があったことをみると、いかにその名を広げていたのかがわかる。
三余とは冬・夜・雨の日など学問すべき時をさしていて、南条の教育観を示した言葉である。
三余堂の教育は、経書、歴史、詩文の学習を中心に据えて、門人の能力は学業の進度に応じた指導がなされた。
南条の主著「三余雑著」には「子弟を教育するには、仁がもっとも大切であると思う」とあり、厳格な礼儀を重要視した。課業を嫌った孫を雪中に投げ込んだとの逸話も。
南条が修めた折衷学は「三教一帰序」、「殊途同帰」、すなわち儒教・仏教・神道はいずれも聖堂から生じ、等しく真理を述べていると考えたからであり、特定の学問や教養だけが正しいとする立場に批判的であった。
また、南条は詩を作り楽しむことも勧めた。「南条三余草抄」巻一、「贅言三条」には「世の学者で、もっぱら経書や歴史を研究して詩など韻文を好まない者は、必ず柔和さ篤実さが足りません。それは、詩から生じる教えを用いないからです。反対に詩を好み経書や歴史を研究しない者は、必ずつつしみ深さや厳格さが乏しくなります。それは、人のふみ行うべき秩序の教えを用いないからです。両方ともに、どちらか一方ではかたよります。ですから、経書や歴史の研究の合間に心の動きを詩歌に詠んだりして、柔和で篤実な精神を養うべきです。」と述べている。
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三余堂の設立の経緯に驚く。村民が共同出資してまで、教育機関を作ろうとした民意!
そして、南条のバランス感覚!見習わねばいけないな。