良寛は言った「いずれきっと名を成すにちがいない」。
西蒲原郡粟生津村の長善館・塾長鈴木文台(寛政8年(1796年)生まれ)をそう評した。
早熟な文台が19歳で江戸へ出る直前、牧ヶ花村(西蒲原郡分水町)の名家解良家で「論語」、「唐詩選」の講釈を聞いた際の良寛の言葉である。
文台は江戸へ出るが定師につかずに独学の道を歩んだ。
3年後、病を得て帰郷した文台は牧ヶ花村の掬水庵などで授業しながら、学んだ。
そして、天保4年(1833年)、文台38歳のとき、長善館を開いた。
「長善館学則」十一ヶ条
一、朝は早く起き、夜の課業は亥の時(午後九時から十一時)まで、ただし年少者は、このかぎりではない。
一、授業を受けるときは、口をすすぎ、手を洗うこと。
一、午前は袴を着ること。
一、午前は素読が終わった後、線香一本がともる間休み。
一、昼食後は線香半分がともる間休み、午後二時頃同じく一本休み。
一、一の日は詩作会の後、午後は髪を梳かし、入浴する。
一、六の日は複読と輪講。
一、四書五経は必ずまず、古註を基本にして、清(中国)の儒者の考証と歴代の諸賢の説を探って正しい道理を学び求めること。
一、小学は、爾雅、説文、広雅、字典を学ぶこと。
一、歴史・諸子百家は必要に応じて学ぶこと。
一、詩文は文選を学び、また李白、杜甫、韓愈、柳宗元、白居易(ともに中国唐時代の詩人)を読むこと。その他の著述については、各自の学力に応じて読むこと。粗雑にならないように。
「学軌」と題する一文に『孝経』を重視し「学とは何ぞ、孝悌のみ」と断言していたことから、孝悌(父母に孝行で、兄や目上の人によく従うこと)が長善館教育の精神であったと思われる。
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前掲記事と同じく、高木靖文氏(新潟大学)の章の要約メモ。
良寛とのやり取りを想像すると面白い。実際にこういった交流が幾十にも重なって、思想と情報が行き交っていたのか。
学則にしても、現在の教育に活かされるべき、または脈々と受け継がれている項目がある。
いやはや、江戸後期、越後の国の教育に驚く。